曽野綾子さんのエッセイに表題のような文章があった。
少し長いが引用すると、
『これは私の場合に限るのかもしれないが、私は道徳性と言うものにあまり、大切さを感じない。
嘘をつくと総じて後が良くないが、人生は、簡単なことなら嘘をついておいた方が物事があっさりと理解される場合もある。自分の内面の事情を延々と誠実に説明する人がいるが、私はそういう人に会うと、相手の話が終わるまで、どこかで居眠りしていたくなる。
私はつまり「あなたは私に何をお望みですか?」と言うことが、あっさり伝わらないと疲れてしまうのだ。それが叶うなら、私はできるだけ相手の希望を叶えたいのだ。すると双方が得をする。相手は希望する状態を手に入れ、私は相手の望むことを叶えたと言う満足を味わう。だからその途中の方途や動機はどうでもいい。不純でも構わない。
不純だといけない、と言う人のことを、世間は融通のきかない人と言うが、この手の性格は、根は正直でいい人だと思われている。しかし「いい人」は「悪い人」と同じ位始末に困る。
自分が善人であることに自信を持っている人なんて、面白くないし、この手の人は、「あなたが間違っている」などと相手から言われようものなら、取り返しがつかないくらい怒る。しかし自分はしばしばインチキ人間だと思っている人は、「そうだよ。世間なんて、皆、多かれ少なかれでたらめなんだなあ」と、思えるから他人に対して寛大になれる。』
私は腑に落ちる事があった。
私自身も「いい人」でなければならない、と思っていた。
その方が楽なのだ。
以前嘘をついていて、それを次に辻褄合せをするのは嘘を記憶しておかなければならない。
そうしないととんだ恥をかくことになる。
恥をかきたくないから正直を旨にする。
これは、相手にとって融通の利かない人だったかもしれない。
本当の意味で相手の事を思うなら、嘘も方便が大切なのだろう。
しかし、そう簡単には自分を変えられないから困った。