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'19/12/25 加害性のある弱者を救う道は無いのか?

月刊「プレジデント」の御田寺 圭氏の記事『無差別殺人犯はなぜ「一生刑務所」で万歳したか』これは「加害性のある弱者」の問題だ。と断罪する。

新幹線無差別殺傷事件、京アニ放火事件、川崎連続殺傷事件、そしてこの「元農水次官による殺人事件」などは同じ延長線上にあると。

彼曰く、

この社会は、暴力をふるうかもしれない。トラブルを起こすかもしれない。

そのような「加害性のある弱者」は、社会が包摂するようなチャンネルがほとんど整備されていない。

多くが家庭に押し付けられて不可視化される。

家庭は外部に相談をしようにも、適切な機関の存在をそもそも知らなかったり、かりに知っていたとしても、相談することによる家庭環境の悪化や、地域社会からのスティグマ性によってためらったりしてしまうことも珍しくはない。

そして、社会の全員でコストを支払って、物心両面のリソースを供出し「加害性のある弱者」を包摂するより、

社会の成員の多くが包摂のためのコストを支払わず「加害性のある弱者」を不可視化してやりすごす方が、トータルで合理的だと判断する。

言い換えると、社会の成員のきわめて少数が、時折その「合理的判断」のための「コラテラル・ダメージ(副次的犠牲者)」として犠牲になる――という道を選んでいるということになる。

 

我々は、この厳しい社会の合理性判断に気が付きながらも見て見ぬふりをしている。

そして社会的弱者を切り捨ててしまっている。

我々は近い将来、AIに職を奪われて流浪する多数の弱者になるかもしれないのだが。