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'20/2/10 人生のある時期に「山をやる」意味

二十代にふと夏山に行きたくなり道具を揃えた。

靴とリュックその他の装備は初めてだが専門店で揃えた。

命がかかってるからケチらなかった。

それなりに訓練もした。

近くの御在所で予行演習して単独行で八ヶ岳に登った。

それからしばらくは休んでいた。

そして四十代、西宮に引っ越してしばらくして阪神大震災に遭遇した。

双子の娘達は小学六年で、その精神的な後遺症を解消しようと六甲山に家族4人で登り始めた。

何回か登って思い出の八ヶ岳に一緒に登った。

二泊三日で山小屋に泊まった。

もうその頃には娘達に精神的な後遺症は見られなかった。

それから3年程は六甲山で軽登山を楽しんだ。

妻はすっかり山にハマり女性の登山会に入会し毎週の様に登っていた。

あまり強くなかった身体もかなり強くなった。

その後は、私が海外勤務となり一緒に登る機会が無くなった。

海外から戻ってもトレッキング程度しか行かなくなった。

一度でも自主的に山に登った人は「100%の安全では無い」行為に向き合った経験をしたという事だ。

天候の急変で遭難したり、狭い稜線を歩けば滑落の危険が隣り合わせだ。

それは命を見つめる貴重な機会だ。

苦労を乗り越えて立つ山頂の素晴らしさは何物にも変えられない喜びを感じさせてくれる。

私は娘達がいつか子供達を連れて山に登ると思っている。

あの素晴らしい経験を子供達に伝えたいと思うはずだ。